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移転しました。

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ややスタンスを変えてもうちょっとゆるい感じでいこうかと。
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風立ちぬ 評

「風立ちぬ」 評

久々の更新になります。

先日、ようやくスタジオジブリ最新作、「風立ちぬ」を観てきました。僕は、前作の「コクリカ坂から」については劇場でボロボロ泣きしておきながら、その内容についてボロクソに批判するという不可解なことをしていたりするのですが、本作についてもそういった僕にラディカルな反応を引き起こすものを期待していたのですが…

本作は僕を泣かせることもなければ憤らせることもなく、感情を昂らせることのない実に淡白な作品でした。それはまあこの作品で描かれていること、描こうとしていることがあまりに妥当というところに尽きるのではないかと直感的には思うのですが、その辺の検証できるかどうかはさておきとりとめもなく書きます。


(以降、ネタバレを含みますので(ネタバレがどうこうという作品ではないと僕は考えますが、)ご注意ください)



まず、冒頭。二郎少年が飛行機の設計者を志すところから物語は始まります。(近眼という身体的制約から)「飛行機に乗る、操縦する=空を飛ぶ」ではなく「飛行機をつくる」ことに夢見るというのが歪みのようなものを軽く感じさせます。
その後彼は少年の日の夢を成すことにただひたすらに邁進する。その背景として病弱な少女、菜穂子との恋が描かれ、その夢が実現とともに、菜穂子の死が描かれることで幕引きとなる。

序盤から一貫しているのは二郎の飛行機の開発に対する、その情熱、純粋さ、真っ直ぐさ。それは裏を返せば、人間としての他の責任を放棄しているとも言える。
つまり、作中でも触れられているように、その時代において飛行機をつくることとは兵器を、戦争・人殺しの道具をつくることに他ならない。しかし、そのことについて二郎が葛藤するような描写はほとんどない(と記憶している)。彼は自分のやっていること、成さんとすることがもたらすものについて自覚的でありながら、努めて無自覚であろうとする。技術・科学技術の発展・向上という価値中立とみなされる領域に留まろうとするばかりで、その技術の帰結するところ及びそのことと自己との関わりについては判断停止を決め込んでいるようである。
彼がそのような確信犯(誤用)的姿勢によって見て見ぬふりをしてきたものとは終幕の菜穂子の死、および終戦を経てようやく彼に重くのしかかってくる。兵器ではない飛行機をつくることができる可能性が開けた状態にあっても、二郎の目には少年のようなきらめきはなく。
この悲劇には2つの原因がある。
1つには、技術や科学技術が潜在的に有する向上・進歩・発展という方向への推進力。一度ドライブがかかってしまえば、その推進力を止めることは非常に困難で、心弱い人間はそれに巻き込まれただひたすらに突き進むしかない。それは飛行機に魅せられたばかりに、愛していると言った女性さえもただ道具のように利用するだけ利用して死なせてしまった二郎は何も特別に人として欠陥のある存在ではなく、誰しもがそうであったのであり、そうでありうるのである。

もう1つには、各人が個人個人に割り振られた職務の範囲内に閉じこもることによる全人格的な責任の放棄。3.11後に原発事故と第二次世界大戦(日本軍の意思決定やホロコースト)を結びつける議論が散見されたけれど、残酷は悪人がなすのではなく、(倫理的な葛藤から目を背けることで成立する)誠実な職業人こそがなすのである。

二郎という人物は、(結果的に?)職業人として職務に忠実である様が作中で描かれるが、内面としては自身の欲望に忠実であったという方が正確であろう。夢や志望のままに生きることは美しいとされるが、その美しさとうのは、それが美しくあるためにさまざまなものを切り捨てていることを忘れてはならないし、そのことを予感させるからこそより美しくあるのだろう。

まあ僕からすればそんな美しさなんかクソ食らえであり、泥の中にまみれてもがいて息絶えたいと思うのです。

最後に。
作品の主題と思しき「生きねば」とは何なのか。近代システムに飲み込まれ(たように偽装し)て、システムに生かされるのではなく、極めて厄介な倫理的葛藤を含めて全人格的責任を引き受けるような生き方を回復せよ、と。それこそが生である。と。




ジブリがゼロ戦開発者の物語を描くというからどんなにか矛盾に満ちた刺激的なものになるかと期待していたのにあまりに穏当な落とし所であり、ひどく物足りなさを感じた次第です。

6/23 ARISEと半額の鯨

・65'jog
だるいながらもまあまあ走れる。

・攻殻機動隊ARISE
知人とガーデンズで攻殻機動隊ARISEを観る。
ただでさえわかりにくいのに「偽装記憶」が今回の主題であるがために尚わかりにくい。
入場の時に冊子を渡された段階で「ああ文面による補足なしには成立し難いのか」とある程度覚悟はしてみたものの(しかし、読まなかった)こいつはパッケージ買ってじっくり見たいな、と。


・鯨
夜。
晩飯買いにスーパーへ。
今日は普段行かないスーパーに足を運んでみた。

割引になってるであろう売れ残りの刺身を狙って鮮魚コーナーへ。


そこで半額になってる「南氷洋産 ミンク鯨」を発見。

「ああこれがむりくり南極でやってる”調査捕鯨”で獲ったはいいものの、余りに余りまくってる鯨肉か」と。
やっぱスーパーでも売れ残ってんだな、と。

捕鯨に賛成する人はその帰結であるところの鯨肉を率先して消費せよ、と。

と思いつつ、捕鯨推進派でもなんでもない僕ですが、売れ残って捨てられるであろう鯨肉が哀れになってきたので鯨肉を買う。
鯨肉を自分で買って食うのは初めて。



かつて捕鯨を推進したスローガンは”鯨肉は貴重なタンパク源”という言説であったという。
それはある時代までは効力をもっていたであろうが、牛肉その他の供給拡大によって自ずと効力を失う。

そして、代わりに掲げられた看板が「捕鯨は文化」論。
なぜだか市民権を得ているものの…
じゃあその文化を担っているのは誰なのか。

鮮魚コーナーの隅で売れ残っている鯨肉を見て思った。


そして、食って思うのはああこいつはあくまでも”タンパク源”でしかないのだな、と。



6/22 京都学@立命大

立命館大学の土曜講座に行ってきた。
土曜に一般向けに開かれた講座を行っており、月ごとにテーマが設定されている。今月のテーマは「京都学」。立命にはなにやら京都学なる講座がおかれているそうな。さすが歴史都市・京都。
僕が行った回のタイトルは「歴史都市・京都をいかい論ずべきかー「千年の都」論を中心にー」ということで神戸大の高橋昌明教授の講義でした。

内容としては正直なところ序盤は退屈な大学の史学の講義を彷彿させる単調なもので若干寝てたのですが、それなりに聞いていくとなかなかおもしろくなるもので。

京都というと「千年の都」という文脈で語られているが、戦国時代の戦火の中で荒廃し、一度断絶がある。その後、江戸幕府の統制強化への反発として、朝廷勢力側のアイデンティティの模索→王朝文化・美意識への憧憬・回帰が和解を探る幕府側の資金援助を受けて平安由来の建築物の再建・復興ブームとして実現した、と。

ここでおもしろいのは現在京都に残っている歴史的建築物の多くがこの頃に再建という形で建てられたものだということ。つまり、我々が「千年の都」を想起させるものとしてありがたがっているもの自体は既にそれが建てられた時から同種のノスタルジックな理想像が具現化されたものだということ。それを考えると現代の観光客(に限らないとは思いますが)というのはなかなかややこしく面倒な感動をしているのだな、と。

講義の続きですが、そうして近世前期に文化的には「再建・復興」したものの、近世の中後期は文化の拠点はやはり江戸に移り衰退する京都。幕末に朝廷が政局の台風の目となることで状況は一変するも、結局、東京遷都となることで人口は激減。
そこで、ふつうに京都を近代都市として再興しようとする向きもあったらしいけれど、今度は明治政府の以降で歴史・文化都市としての保存しながらの発展へと舵が切られることとなる。
背景としては、日本が欧米列強と比肩するには単なる近代化だけでなく国としての歴史性・文化性が必要となる。所詮は江戸幕府300年弱の歴史しかない東京では力不足ということで、そこに京都大先輩の出番となったと。

ここで二重に「千年の都」的なイメージを背負わされて再構築・再興される都市・京都というのがあるわけで。まあでもここまで書いて思ったのは世界の他の歴史都市はどうだったのだろうか。京都という街は市民の草の根的な保存運動というよりも、時の支配勢力ないしは没落しつつある勢力によるカウンターとして利用されてる感が(こうやって切り取ると)強いけれど、欧州とかは政治的必要を抜きにしても歴史都市というのは成立できたのだろうか。



そういったことは今後も京都に足を運びながら考えるとして、今回の講義は参加者がとても多いことに驚かされました。立命の土曜講座の集客力なのかそれとも京都学というものに潜在的ニーズなのか。
ただ、ひとびとというかふつうの京都市民ないしは京都好きなひとが求めているものと対局的なこと、すなわち、もろもろの京都幻想を壊すのが京都学の方向性ではないかなと思って勝手ながら先行きを案じてみるのです。

帰りにせっかく立命館大学まで来たので金閣を見て帰りました。観光客いっぱいでしたね。正直、金ぴかの建物見せられて悪趣味としか思えない僕は日本的美意識を解さない非国民なんでしょうかね。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

6/16 武庫之荘哲学カフェ「デジタル技術によって人は生きやすくなったか」

/16(日)武庫之荘哲学カフェ「デジタル技術によって人は生きやすくなったか」

こないだ行った京都・四条大宮での哲学カフェで参加されてた方から武庫之荘(注:僕の住む西宮北口の隣駅)でも哲学カフェを月1でやっているときいて足を運んでみた。

今回のテーマは「デジタル技術によって人は生きやすくなったか」。

対話は「なぜ”便利”ではなくあえて”生きやすさ”なのか」と問うことからはじまった。
僕としては、「デジタル技術によって暮らしが”便利”になったか」という問いを立ててみたところでそのテーゼに同意しない人というのは想定し難く、まったくもってナンセンスではないかと思う。それをあえて”生きやすさ”という尺度で問うことに意義があり、その問いの立て方こそ”哲学カフェ”的であると思う。ところで、こういった時に「”生きやすさ”とは何か、まずその内容を定義付けよ」みたいなことを言う人がいるわけだけれど、こういう議論の進め方こそナンセンスである。何らかの結論を出すことを目的としており、かつより効率的にそれに至ることをよしとするようなタイプの対話というより議論の場としてはそのような運営は有効かと思うけれど、特定の答えを出すよりもなるべく多様な意見を拾い上げることに重きをおくような場では、冒頭から視野を狭めてしまってはもったいない。
あまり構えずに率直になぜ生きやすく/生きづらくなったのかと語っていくにつれて他者ないしは自分自身が生きやすさ/生きづらさというものをどのように考えているかというのがそのことばの節々から浮き彫りにされていくのであり、”生きやすさ”の中身について話すにしても、ある程度多様な生きやすさ/生きづらさがその場に蓄積された段になって、既に提出されたものを足がかりにその内実を捉えようとしていくことが望ましかろう。

さて、話はそれたけれど、僕なりのデジタル技術、ないしはデジタル化についての見解を述べたい。

まずデジタル化というのをざっくりとアナログなもの(≒感覚的なもの)をデジタルなもの(≒数値化された情報)に置き換えることと捉えたい。専門的な定義云々からすれば厳密さには欠けるだろうけど、一般的に世の人が”デジタル化”と言った時にイメージするものから大きく離れてはいないかと思う。話の話でもそうであったけれど、どちらかというと”情報化”と極めた近い文脈で語られていたように思う。もちろんパソコンもインターネットもデジタルありきだとは思うけれど、デジタル化と情報化というのは連続したものであっても一定の違いを意識して語られるべきだと思う。

僕が思うに、デジタル化というのはつまるところ、それをなすことに特殊な技術や専門的な知識が必要とされたものごとが、主にハード面での進歩によって”誰でも””容易に”できるようになることと言えるかと思う。それまである種特権的な地位にあったものが一般に解放されるという点で民主的であり、工業製品などはデジタル制御されることによってより短時間でより安定した品質のものをより安価につくれるのであるから、ごく近視眼的な見方に立てば手放しに歓迎しやすいもののように思える。

しかし、ここで問題になってくるのがデジタル化されるまでその仕事を担っていた労働者、”職人”たちの行き先である。同種の問題は産業革命以降つねに社会に存在していたわけだけれど、この種の問題への応答としては、専門化していた技術が一般化(≒デジタル化or機械化・自動化)した後は、人間はより高度な労働にのみ従事すればよいというタイプの言説があるかと思う。現に製造業が海外へ生産拠点を移していくなかで、日本国内では海外ではできない高度な技術を要する仕事に(選択と)集中していけばいいというのはよく聞かれる話だ。まあでもそんなに高度な技術が要求される仕事というのは自動化される以前にその仕事に従事していたほとんどの人に食い扶持を保障できるほどあるわけもなく(そもそも人件費を削るべく人を減らすことこそが自動化の目的であるわけだし)。
この古くて新しい問題というのは、現代社会の労働市場において就職できない若者や派遣などの非正規雇用、過酷な労働環境で酷使され、搾取される人々といった形でドラスティックに顕在化している。

だからといって、デジタル化によって生活が便利になっているのは紛れも無い事実であり、そして、それが可能になってしまう以上、その技術を放棄することは困難であろう。ならば、これからこのような技術の進歩がもたらすものとどう向きあっていけばいいのかということを語り合いたいと思っていたのだけれど、そこはやはり哲学カフェは対話の場というだけあって、同じテーマ設定に対して僕なんかが想定していた「(社会として)生きやすくなったか」ではなく、もっとシンプルに「(個人として)生きやすくなったか」と考えればよいという意見が挙がった。

その場では僕もうまく言えなかったのだけれど、僕はこういう個人主義的、新自由主義的なものの考えこそがデジタル化の進展がもたらしているものではないのかと考える。
さまざまなものがデジタル化していくことで基本的に人と人とのコミュニケーションというのは簡素化する。足を運ぶことも対面でのやり取りもなしにクリック1つで欲しい物を手に入れてることができたり、特殊な技能/知識をもった専門家を頼る必要もないわけです。結果を得るまでのプロセスとうよりもそこに携わる人々がいなくなる/見えにくくなることで個人主義的な考え方が強化されているのではないか、と。
単純な「昔はよかった」という話はないのだけれど、なにか困ったことに出くわした時には周囲の良識あるひとびとに相談し、直接ないしは専門家を紹介してもらうなどして解決していたことが今ではネットで調べて解決しようとしてしまうことが多いのではないか(もちろんそのネットの記述についてもそれを書いている人がいるわけだけれどそういった人の存在というのは姿が見えないこともあって意識しづらい)。そこで「自分の力だけでなんでもできる」という感覚が日常的に生成・強化され、「成否・勝ち負けを分けるのは個人の努力次第」という新自由主義的な価値観が説得力をもっているのではないか。

ここまで書いといてなんですが、僕の「とりあえず新自由主義叩いとけばいい」みたいな論じ方も要反省ですね。


その場では触れられませんでしたが、スマートフォンとかタブレットはデジタルの最先端とみなされがちだけど、操作としてはタッチパネルという直感的(=アナログ的)なものを採用していて単純には語れないものがあるのかと。デジタル化が一巡してすべてがフラット化した後に差異を生むとしたらそこはアナログなものであり、デジタルが普及することでかえってアナログ的なものが価値をもつというのはまあありがちな意見ですかね。
例えば音楽CDの売上(音源のダウンロード販売含めて)が落ちても、ライブの集客は衰えなかったり、某アイドルの握手会が活況を呈すように、いくらでもコピー可能な物質的なものの魅力は下がっても、”体験”というアナログなものの価値はむしろ上昇しているようにみえるわけです。


なんだかいろいろ飛び火して言いたいことがぼやけていますが、僕の考えとしては冒頭の便利/生きやすさというところに立ち返って、これまで無条件に「便利=善」(「成長=善」)という前提を盲信して猛進してきたのを方針転換すべきではないかというところが無難な落とし所かと思うわけです。



まったく話変わりますが、今回のテーマ設定がそもそも”生きやすさ”という言葉を使用しているわけですが、僕は同種の問題を考える時は常に”生きづらさ”というネガティブな切り口からであったなと気付かされた次第です。なぜそうなってしまっていたかというのはいろいろと考えてみたのですが、僕にとってこの社会というのが圧倒的に”生きづらい”から、”生きづらさ”のリアリティ、それに尽きるのではないかというのが暫定的な答えです。


テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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    コンクリートジャングルをさすらう山伏的な何かを目指します。わりに人生楽しんでるんじゃないでしょうか。

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